大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和29年(ワ)3652号 判決

原告 中村実

被告 小林四郎 外一名 (いずれも仮名)

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一、原告訴訟代理人は「被告小林四郎は別紙目録〈省略〉記載の家屋(以下「本件家屋」という。)につき賃料一ケ月金五千円の約で期間の定めのない賃借権を有しないことを確認する。被告長谷川和子は原告に対して本件家屋を明け渡し、且つ、昭和二十九年二月一日から明渡ずみまで一ケ月金五千円の割合による金員の支払をせよ。訴訟費用は被告等の負担とする。」との判決及び被告長谷川に対する請求につき仮執行の宣言を求め、予備的請求として被告小林に対し被告長谷川に対する前記請求と同一の判決を求め、請求の原因として次のとおり述べた。

一、原告は昭和二十二年六月一日被告小林四郎に対して本件家屋を賃料一ケ月金五百円の約で期間の定めなく賃貸した。賃料はその後順次値上げされ、最近の賃料は一ケ月金五千円である。

被告小林は当初よりその妻と称する被告長谷川和子とともに本件家屋に居住していたが、その後東京都××××○○町□□□の現住所に世帯を持ち妻美代子等と暮しており、本件家屋には昭和二十五年頃から居住していない。

二、家屋の賃貸借について何人が賃借人として現実に占有しているかは重要な点であつて、当初賃借人として占有していた者がその占有を止め、家族でもない第三者にその占有を委ねているのは、賃借人の意思如何にかかわらず、賃借権の放棄とみなすべきである。

従つて、被告小林は本件家屋の賃借権を放棄したものであるから、原告は同被告に対して賃借権不存在の確認を求めるとともに、被告長谷川はなんら権原なしに本件家屋を占有するものであるから、原告は同被告に対して本件家屋の明渡を求め、且つ、昭和二十九年二月一日より明渡ずみまで一ケ月金五千円の割合による賃料相当の損害金の支払を求める。

三、仮に賃借権の放棄が認められないとすれば、原告は本訴において被告小林に対して賃貸借契約の解約の意思表示をし、本件家屋の明渡を求める。その正当の事由は次のとおりである。

(一)  被告小林は本件家屋に居住せず、被告長谷川は本件家屋の一階六畳の間に居住し、被告等は、その他の七室を訴外芝田盛夫外七名に間貸をし、毎月一万五千四百円の収入を得、原告との約定賃料金五千円に三倍する利益をあげている。

(二)  原告は妻、子供三人との五人暮しであるが、二男と二女はいずれも結婚適齢期にあり、昭和二十八年十二月三日被告長谷川に対して本件家屋の明渡を要求し、期限を昭和二十九年五月末日と定めたところ、同被告は一旦承諾しながら後になつて取り消した。

(三)  その後原告と被告長谷川との間に紛争があり、昭和二十九年二月二十四日暫定的な和解が成立し、被告長谷川は当時居住する者以外に新たに居住者を置かないことを約束したにかゝわらず、同年五月十二日訴外木村某が同被告の承諾を得たといつて本件家屋に原告の阻止もきかずに侵入し、同月十四日本件家屋の同居人に対して本件訴訟のてん末書を書くことを強要した。

以上の諸事実は賃貸借の基礎となる信頼関係を著しく破壊するものであり、又被告等が本件家屋を使用する必要性も乏しいから、借家法にいわゆる正当の事由に該当するものである。

四、被告等主張の第三項のうち被告等主張の間貸の特約があつたことは認める。

第二、被告等訴訟代理人は、主文と同趣旨の判決を求め、答弁として次のとおり述べた。

一、原告主張の第一項の事実は認める。

二、第二項は争う。

(一)  被告小林と被告長谷川とは昭和十二年頃から内縁の夫婦関係にあり、本件家屋にも同様な関係の下に同棲していた。ところが、被告小林は昭和二十三年十二月生家の種々な事情のため現在の妻美代子と結婚するに至つたが、被告長谷川に対する情愛に変りはなく、従前どおりの関係を継続していた。偶々昭和二十五年春頃から胸部疾患のため生家に寄宿するようになり、本件家屋から離れたが、昨今漸く健康を回復し、再び本件家屋で事業活動をするよう準備中である。

以上に述べたとおり、被告小林が本件家屋を離れたのは健康上の理由によるもので、賃借権を放棄する意思はない。家屋の賃借権は、賃借人がその家屋を必要としない事情にあり、且つ、客観的に見てこれを放棄したと認められる特別の事情の存在しない限り、これを放棄するなど家屋不足の現状から見てあり得ないことである。

(二)  被告長谷川は昭和十二年から被告小林の内縁の妻であり、昭和二十三年自己の意思に基かず内縁の妻という地位を失つたのであるが、依然として被告小林との生活共同体の一員であつたから、内縁の妻でなくなつたからとて直ちに家屋居住の権原を失うものではない。仮に被告小林が賃借権を失つたとすれば、かゝる場合内縁の夫が死亡したとき内縁の妻が賃借権を承継するのと同様に、被告長谷川は被告小林の有していた賃借権を承継取得したものであつて、賃貸人に対して独自の賃借権を主張することができる。

三、原告主張の第三項のうち(一)の事実は認める。(二)の事実は否認する。(三)の事実のうち原告主張のとおりの和解が成立したことは認めるがその余は否認する。

被告等が原告主張のように本件家屋に間借人を置いたのは、最初の賃貸借契約の際に独身者には間貸をしてもよいとの特約があつたからである。

証拠〈省略〉

理由

一、原告主張の第一項の事実は、当事者間に争がない。

二、そこで、原告の賃借権放棄の主張について考えてみると、およそ賃借人が賃借権を放棄する場合があるとすれば、それは賃借人が将来賃借物件を再び使用しない意思の下に賃借物件の使用をやめたときでなければならない。原告は家屋の賃貸借については何人が現実に占有しているかが重要であつて、賃借人が現実にその占有をやめ家族以外の第三者に占有を委ねているときは、賃借人の意思如何にかかわらず賃借権を放棄したものであると主張するけれども、この見解は正当でない。なるほど、家屋の賃貸人にとつては何人が家屋を占有するかは重大な関心事であるが、家屋の賃借人は常に自ら現実に占有していなければならぬ義務を負うものではなく、自己が現実に占有する代りに家族雇人に占有させておいてもよいし、又留守番をおいても差支えない。もし、これらの者以外の第三者に占有させた場合においては、現下の家屋事情のもとにおいてはそれは通常自己の賃借権を留保しつゝ第三者に転貸するか又は自己の賃借権を第三者に譲渡するかいずれかであることが通例であつて、前者の場合には賃借権は依然として賃借人の手中にあり、後者の場合は賃借権を失うけれども、それは賃借権を放棄したのではない。賃借人がそのいずれの途ずれの途にもよることなく第三者の占有に賃借物を委ねることなしにこれを将来使用しない意思の下に自らその使用をやめた場合、はじめてこれを賃借権の放棄と解することができるのである。

三、そこで、進んで被告小林がどうゆう事情で本件家屋に居住しなくなつたかを考察すると、成立に争のない甲第三号証から第七号証までと被告本人小林四郎、長谷川和子各尋問の結果及びこれらによつてその成立を認めることができる乙第一、二号証とによれば、次の事実を認めることができる。

被告小林は昭和十四年春○○区×××□丁目の被告長谷川方に下宿するようになつて同被告と相識り、昭和十九年頃からこれと内縁関係を結び、昭和二十二年六月本件家屋に両名で同棲してその関係を継続していた。ところで、被告両名は被告長谷川の方が年上であることやその他家庭の事情等から正式の結婚ができなかつたのであるが、被告小林は親から別の結婚を極力勧められたので、昭和二十三年中に被告長谷川に内密で現在の妻美代子と正式に結婚し、東京都××××○○町□□□にある生家の近くのアパートの一室に美代子を住まわせ、そこに泊つたり本件家屋で泊つたりしていた。そのうちに商売が思わしくなくなりその上胸部に疾患があると診断されたので、昭和二十五、六年頃被告長谷川に内密で事情を告げずに療養を兼ねて生家に戻り昭和二十七年頃には入院したこともあるが、現在ではほぼ本復した。その間同被告に二人妻のあること双方に知れてしまつたが、妻美代子も被告長谷川も同被告との関係を断とうとせず、お互の関係は仕方のないこととして認めている状態にあり、被告小林もこれにひかされて現在では□□□での生活を主体としていながら被告長谷川との関係を引き続き継続しており、再び本件家屋を根拠として商売を続けたいと考えている。

四、以上認定した事実によれば、被告小林が本件家居を去つたときこれを将来使用しない意思のもとにその使用をやめたのでないことは、おのずから明らかであらう。そうだとすれば、同被告はその際被告長谷川に対して本件家屋を転貸したか又はその賃借権を譲渡したのではないかということも考えられるが、同被告が本件家屋を去つたときには、去ることさえも被告長谷川に内密にしていたことさきに認定したとおりであるから、その際転貸又は賃借権譲渡の話が出たとは思われないし、その後両者間にかような話があつたことを認むべき証拠はないから、被告小林の賃借権は依然として存続しているものと解するよりほかにない。そして、被告長谷川は被告小林の第二夫人であるから、家族と同様に考え、同被告の賃借権に基いて本件家屋に居住することができるものと解するのが相当である。

五、そこで、次に予備的請求につき正当の事由の有無を順次判断する。

(一)  被告小林が現在本件家屋に居住せず、被告長谷川が本件家屋の一階六畳の間を使用し、その他の七室を原告主張のとおり間貸して原告との約定賃料に三倍する収入を得ていることは当事者間に争がないが、当初賃貸借契約の際に原告が独身者には間貸をしてもよいとの承諾を与えたことは原告の認めるところである。

(二)  証人中村登の証言によれば、原告は妻と二十八才になる二男、二十二才になる三男、二十四才になる二女と五人暮しであつて、二女は目下婚約中であるが、二男又は三男には具体的な結婚の話はなく、将来二男又は三男が結婚するときには本件家屋に住まわせたいと考えていることが認められる。しかしながら、被告長谷川が昭和二十八年十二月三日本件家屋を昭和二十九年五月末日までに明け渡すことを承諾したとの原告主張事実は、これを認めるに足りる証拠がない。

(三)  原告と被告長谷川との間に昭和二十九年二月二十四日暫定的な和解が成立し、被告長谷川が新たに居住者を置かないことを約束したことは当事者間に争がなく、証人中村登、田中与一の各証言と被告本人長谷川和子尋問の結果とを考えあわせると、木村某が昭和二十九年五月頃本件家屋に引越荷物を持つて来たので、原告及びその長男中村登が阻止すると、同人は原告等に手荒なことをした揚句本件家屋に居住するようになり、本件家屋の同居人田中与一等に対して被告長谷川とあらためて契約書を作成するよう強要したことが認められる。しかしながら、以上の諸証拠と成立に争のない甲第八号証とによれば、原告の長男中村登が被告長谷川の制止もきかずに本件家屋の階下八畳の間を占拠して居住したことがあり、これが契機となつて前述の暫定的な和解が成立したのであるが、被告長谷川はその後も絶えず原告から明渡を求められたので、女の身で困却して友人にその由を話したところ、これをきいて義憤を感じた木村某が本件家屋に住むに至つたこと、同人が本件家屋の同居人に対して被告長谷川とあらためて契約書を作成するように強要したのは、原告が昭和二十八年暮頃本件家屋の同居人に対してこの家屋は原告の所有であるから直接原告と賃貸借契約を結ぶようにと要求し、同居人のうち二名を除くその他の全員と直接契約をしたことがあつたので、これを正当として再び被告長谷川との契約を復活させようとしたものであること、木村はその後原被告間に新たな居住者を置かないという約束のあることを知つて入居してから約一個月後に本件家屋を去つたことが認められる。

六、以上の事実からみるときは、被告等側に不信の点があるとすれば、それは被告長谷川が新たに居住者を置かないと約束したにかゝわらず木村某を本件家屋に同居させたということである。しかしながらその同居の期間は僅か一個月余であるのみならず、同人が本件家屋に同居するに至つた動機はさきに認定した如くであり、原告側にも同居人と直接賃貸借契約を結んだり、中村登が本件家屋に無理に居住したりするなど責むべき点があるから、被告側のみを責めることは酷に失すると思われるのであつて、この一事をもつて賃貸借の基本をなす信頼関係を著しく破壊するものとはいうことができない。

次に、原告は本件家屋を必要とするとはいうものの、結婚適齢期にある二男に婚約でも成立すれば格別、さようなこともない現在においては、その必要性は将来におけるそれであつて、被告側特に被告長谷川の現実の必要とは比べものにならないのである。

従つて、以上いずれの点からするも、解約の申入について正当の事由があるとするには足りないものといわなければならない。

七、よつて、原告の本訴請求はいずれも失当であるから棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 古関敏正)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例